■御由緒と御神徳
当宮は鎌倉時代、時の流れに翻弄され遠く都を離れた隠岐、佐渡、阿波でお隠れになられた三天皇の御霊を弔うために後鳥羽天皇縁の水無瀬の地に建立されました。この地は、後鳥羽天皇が都から足繁く通われ「わがふるさと」と思し召された水無瀬の離宮跡であり、「後鳥羽天皇御手印置文」(※1)隠岐での19年の年月を過ごされていてもなお忘れることのできない思い出深い土地であります。
この水無瀬は都から近く、淀川を利用して船の便もあり、桜、山吹、菊なども多く、また木津、宇治、桂の三川の合流点、しかも両岸に小高い山々が迫り、眺望が非常に美しい土地であり多くの歌や文学も生まれ後鳥羽天皇の命により編纂された勅撰和歌集「新古今和歌集」は有名です。
後鳥羽天皇は生前、多芸多能、文武両道にすぐれた才能を発揮されましたので、朝廷、武家からも崇敬され現在も学問、スポーツの神として崇められております。また、正平二年(1347)五月には、足利 直義(尊氏の弟)が夫人の安産祈祷を行い無事男児をもうけており、それにより今でも安産祈願の申し込みは多く、社頭で腹帯の授与もしております。
※1 隠岐で19年お過ごしの後鳥羽天皇60歳の春、ご自身の余命も長くないと覚悟され御自身の両手に朱印を付けしたためられた。これを書かれて2週間後にお隠れになられた天皇の御意志である「我後生を返々とぶらふべし」との一文により、御御霊をこの水無瀬の地にお遷ししてお祀り申し上げた当宮の起源となる宝物であります。
■御祭神
第八十二代天皇 後鳥羽天皇
第八十三代天皇 土御門天皇
第八十四代天皇 順徳天皇
正面 鳥居 |
国宝 紙本著色後鳥羽天皇像 | 国宝 後鳥羽天皇宸翰御手印置文 |
御本殿、拝殿、渡廊、神饌所など一連の建物がある。御本殿以外は昭和4年建立。御本殿は京都御所の旧内待所を江戸時代初期の明正天皇の御代に下賜になったもの。入母屋造屋根で古くは瓦葺きであったが昭和4年檜皮葺、昭和49年銅板葺きに改められ現在に至る。(拝殿は内務省技師角南隆氏の設計)